高村  智恵子

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◆作家略歴

1886年(明治19年)5月20日、福島県安達郡油井村字漆原(現・二本松市油井)の酒造業・斎藤今朝吉(後に長沼家に養子に入り、長沼今朝吉となる)とせんの二男六女の長女として生まれた。長沼家は清酒「花霞」を醸造する酒造家で、使用人を多数抱えた資産家であった。

1901年(明治34年)に油井小学校高等科を卒業したのち福島高等女学校3年へ編入学した。1903年(明治36年)、同校を総代として卒業して日本女子大学校へと進んだ。1907年(明治40年)に大学を卒業した後は、当時では珍しい女性洋画家の道を選び、反対する両親を説得して東京に留まり、太平洋画会展で絵画を学んだ。1911年(明治44年)には、同年9月に創刊された雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、若き女性芸術家として人々に次第に注目されるようになっていった。また、青鞜社の田村俊子らと親睦を深めた。

智恵子は光太郎の評論「緑色の太陽」に共鳴していたものの面識はまだ無かったが、同年12月、柳八重の紹介で光太郎のアトリエで光太郎と出会った。1914年(大正3年)12月、駒込林町(現・東京都文京区千駄木)のアトリエで光太郎との同棲を始めた。この頃は金銭的に苦しい窮乏生活を送りつつも実りの有る創作活動を続けていたが、1918年(大正7年)5月の父・今朝吉の死、1929年(昭和4年)の長沼家の破産・一家離散、自身の絵画制作への閉そく感など心労が多く、また、結婚以前から病弱(湿性助膜炎)であったこともあり、1931年(昭和6年)8月に光太郎が三陸方面の取材旅行で留守中に統合失調症の最初の兆しが表れた。

1953年(昭和10年)2月に東京南品川のゼームス坂病院に入院した。精神病には易しい手作業が有効だと聞いた光太郎は病室へ千代紙を持っていき、1937年(昭和12年)頃より智恵子は病室で紙絵の創作をするようになり、病床から千数百点の紙絵を生み出した。1938年(昭和13年)夏ごろから具合が悪化して10月5日、長らく冒されていた粟粒性肺結核のため死去した。遺骨は東京都豊島区駒込の染井霊園に埋葬された。光太郎は智恵子が亡くなってから3年後の1941年(昭和16年)に、生前の智恵子を偲んで詩集『智恵子抄』を発表した。智恵子の忌日の10月5日は夫光太郎が智恵子の臨終をうたった詩『レモン哀歌』にちなんで、レモン忌と呼ばれる。1995年(平成7年)には療養先のゼームス坂病院跡地に「終焉の碑」が建立されている。

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